山内一豊

山内一豊は、天文14(1545)年、尾張国葉栗郡黒田(岩倉ともいわれる)に生まれた。

父の盛豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老で、黒田城を任されていたが、弘治3(1557)年、織田信長の手のものに襲撃されて討ち死にしたとも、永禄2(1559)年、織田信長に攻められ岩倉城で討ち死にしたとも言われている。以後、一豊は母とともに流浪の生活を送ることとなった。

一豊は流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、織田信長の家臣であった秀吉に仕え、信長の越前朝倉攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられた。

また、本能寺の変で信長が死去し秀吉の天下となると、そのもとで数々の功績を重ね、天正13(1585)年に近江長浜2万石、天正18(1590)年に遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営に手腕を発揮した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し土佐一国を与えられた。

当時の土佐は、長宗我部氏の除封による混乱の状態にあったため、土佐受取りのため井伊直政の家臣2人が一豊の弟、康豊とともに派遣された。

長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしたが、派遣軍はこれを武力によって鎮圧する一方で、康豊は旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開した。

一豊は慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月2日に甲浦に上陸、8日に浦戸城に入城した。

このページのTOPへ