天守の構造

天守の外観

天守外観図・西側

天守は初め、一つの軍事的建築物であったが、城郭の発展に伴い規模を大きくし、領主の権威を象徴する城の中心的建築物へと発展した。
それはもともと大きな櫓の上に小さな望楼を載せた形式から発生したとされ、初期の天守のほとんどが望楼型天守である。望楼型天守は、大きな入母屋造りの屋根の上に回り縁をもつ望楼を載せた形式のもので、丸岡城や犬山城の天守がその典型である。
その後天守は、上層にいくに従って各階の面積が規則的に減っていく層塔型天守へと発展するが、この形式の天守には入母屋造りの破風はなく、屋根は寄棟造りを原則とした簡単なものとなり、津山城天守、大坂城天守がその例である。

天守外観図・東側

天守外観図・北側

天守外観図・南側

天守の断面図

天守・縦行断面

高知城の天守は望楼型天守の典型である。
外観は4重、内部は3層6階建ての建物で、入母屋造りの屋根の上に望楼を載せている形である。
天守最上階には、初代藩主一豊が、先の居城である遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられているが、この形式は、当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいものであった。
構成上から見ると、高知城天守は小天守や付櫓を伴わず単独で建つ独立式天守と呼ばれるものである。

天守・梁行断面

「御城築記」によると、高知城天守は慶長8(1603)年に完成したと思われる。享保12(1727)年の大火によって焼失し、現存天守は寛延2(1749)年に再建されたものである。
昭和の解体修理工事の際の調査から、創建当時の姿がそのまま踏襲されていることが明らかとなった。
現在、古天守を持つ城は、全国にわずか12城しか残っていない。

高知城天守はその中の一つとして初期の古い様式を今に伝えており、現在国の重要文化財に指定されている。

天守の種類

天守の種類

天守の鯱

高知城の鯱(シャチホコ)

鯱というのは、頭は龍のようで背中に鋭いトゲを有する想像の魚で、海に棲むので防火の効があるという考え方で、城郭建築に多く用いられている。高知城では追手門の鯱は瓦であるが、天守の上重、下重の計4個の鯱は青銅製で、いずれも形が整っていて美しい。この鯱は、宝暦7年(1757)と寛政4年(1792)いずれも7月26日に大暴風雨で墜落し、寛政4年のときは、鉄門を登ったところの左手にあった横目(役人)の控所の屋根を貫いた。

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