高知城について

About Kochi Castle

城内俯瞰マップ

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1.山内一豊像

土佐藩の初代藩主山内一豊(やまうちかつとよ)の銅像は、平成8(1996)年9月20日、一豊の祥月命日を卜して再建除幕されたもの。 本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32メートル、重さ3.6トン、台座5.08メートル、総高9.4メートルで、 騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスであるといわれている。

2.追手門

高知城の表門。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。 門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっている。

3.石落とし

石落としは、敵からの攻撃を防ぐために、上って来る敵兵に石を投げ、湯を流したり、槍で突いたりすることができる仕掛け。

4.板垣退助像

板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となった。 この銅像は昭和31(1956)年5月11日に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。像の高さは2.20メートル、台座4.205メートル、全高6.405メートルである。

5.杉ノ段

「井戸ノ段」とも呼ばれた。将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸段に出向いたという。 また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた。また、「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物があった。

6.鉄門跡

門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったことから、こう呼ばれたという。三ノ丸入り口付近の防衛上非常に重要な位置にある。 門を囲む石垣は「打込みハギ」と呼ばれる手法により堅固な石垣が築かれている。門内は小枡形になっており、石垣の上から攻撃できるようになっている。

7.三ノ丸

かつては三ノ丸御殿が建っており、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などから構成されていた。 創建当時、室内は絢爛豪華な障壁画によって装飾されていたといわれている。

8.石樋(いしどい)

高知は、雨の多い土地柄であり、高知城には排水のための様々な工夫が見られる。 この水路遺構は、三ノ丸に降った雨水を集めて2か所の石樋から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう設けられたものと考えられる。 水路は、側板、蓋石で構成されており、主に砂岩が使用されている。底部は、三和土(タタキ)で塗りこめられている。 蓋石を外せば、清掃が容易にできる構造となっており、土砂の流入を防ぎつつ、維持管理を可能なものとしている。 大雨が降った際には、石樋の先端から水が放出されたものと考えられる。石樋部の底石には、側板を立てるための加工が施されている。

9.長宗我部期石垣

高知城のある大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから軍事拠点として利用されていた。 戦国末期、四国の覇者となった長宗我部元親は、岡豊城から、天正16(1588)年大高坂山に移り築城したが、 水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、天正19(1591)年に土佐湾に面した浦戸城に移転したという。 この石垣は、三ノ丸石垣改修工事の事前調査として、平成12年8月から実施した石垣背後の発掘調査により確認された。 その盛土から中世以降の遺物が出土していないため、長宗我部元親が築城した際に構築されたものと考えられる。 また、豊臣家から拝領したものと推定される桐紋瓦も盛土の中から出土している。 これは、瓦葺きの建物があったことを示すとともに豊臣家との結びつきを示す資料である。

10.丑寅櫓(うしとらやぐら)

三ノ丸の東北隅にあった櫓。二階建てで、唐破風や廻縁高欄が付けられた天守と同形式のもので、城内8つの櫓の中では特異な外観をしていたといわれている。

11.詰門(つめもん)

本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。 門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。 一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。 現在の呼称はここからきているものである。

12.二ノ丸

藩主の居住空間である二ノ丸御殿があった。 また、北東には家具櫓や数奇屋櫓などがあり、これらの櫓はその名前が示すように調度や道具類を収納していた。 西隅には三階建ての乾櫓があり、その高さから、さながら小天守のようであったといわれている。

13.本丸

本丸には天守・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物があった。 特に天守は破風を多用した華麗な外観で、城全体の美観を構成する重要な要素である。

14. 天守

外観4重(内部3層5階)の望楼型天守で、最上階には廻縁高欄が付けられている。 「咸臨閣」という別称を持ち国の重要文化財に指定されている。

15.矢狭間塀(やざまべい)

狭間は、丸、三角、長方形といろいろな形があり、丸や三角が鉄砲、長方形が矢で攻撃する構造になっている。

16.太鼓丸

藩政期にはこの太鼓丸に鐘撞堂が置かれたが、明治期に別の場所に移転された。 その後「宜休亭」「亡帰亭」の東屋が建設され高知公園十一景の一つとして市民に親しまれていた。

17.下屋敷(しもやしき)

隠居や世継ぎなどの藩主一族が住居する御殿があった。 明治期には県民のための講演・会合場所である高知県公会堂が置かれ、現在は高知県庁が建つ。

18.桜山

御屋敷の庭園。この庭園の中には「涼風亭」「和楽亭」「花園亭」などの東屋があり、桜山の東には蹴鞠場もあった。

19.御台所屋敷跡

御台所屋敷跡といわれるが、実際に屋敷が存在したかは明らかでない。 明治以降「桃の段」とも呼ばれ、昭和25年から平成5年までは高知市立動物園が置かれた。 動物園移転の後、発掘調査が行われ、中近世の遺構群が確認されるとともに多くの遺物が出土している。

20.八幡宮

藩主一族の祟敬の厚い「藩主直祭」の神社であり、高知城下の町民の氏神でもあったため、毎年9月1日から10日までの祭礼の際に限って庶民の参拝が許されていた。 このほか、城内には厳島神社・熊野神社・祇園牛頭天王宮なども祀られており、現在この場所には往時をしのばせる小祠が残っている。

21.獅子ノ段(梅ノ段)

江戸時代には「鹿ノ段」とも書かれ、射場や馬場があったといわれている。 また、「西南櫓」「西櫓」「乾櫓」の3つの櫓が建っており厳重な警護がなされていた。明治時代のの公園化に際し、梅林となり、現在は「梅ノ段」と呼ばれている。

22.西ノ丸

江戸時代初期には、幕府よりの「御預人」である元豊前小倉城主毛利吉成が住居した。 吉成没後は、2代藩主忠義の娘喜与姫(陸奥三春城主松下長綱夫人)が住居したといわれている。 現在は武道館の別館である弓道場「弘徳館」がある。

23.搦手門(からめてもん)

城の裏門。「西ノ口門」「西大門」とも呼ばれる。